
この高天の蜘蛛窟には次の様な伝説が残っています。『むかし、千本の足をもつ大きな土蜘蛛がすんでいた。時の天皇はお悩みであったので勅使がきて、字 サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。 矢の落ちたところを矢の段という。土蜘蛛を高天彦神社の傍に埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛のいた窟は神社の前の並木の東にある。(御所市史より)
蜘蛛窟は高天原の史跡で見つけにくさナンバーワンの場所です。ここを見つけられずに帰る方も多いです。 ただ、このページを読んだ方なら必ずたどりつけるはず。

鶯宿梅を起点として蜘蛛窟の場所をご案内します。まず鶯宿梅の前のあぜ道を歩くと 左側に小さな看板を見つけることができます。

この看板を見つけたら、看板に向かうあぜ道がありますからそこを歩いて看板の前にたどり着きます。 この看板の矢印の指す方向へ向かいましょう。一見難しくないようなのですが・・・次が要注意のポイント!!

看板の蜘蛛窟の指す方向に歩くだけなのですが、問題は道の険しさというか・・・。 矢印を指す方向をよく見ると一筋のケモノ道のような細い道があるのがわかります。

どうやらこの道を行くらしい・・・
というのはわかるのですが、独りだと先に進む気持ちが萎えます。 なんとなく行く気がなくなって、これで引き返す方も多いです。 それでも頑張って、ケモノ道を進んだとします。 すると林に突き当たります。あれ?と思いますが、蜘蛛窟はこの林の中です。
少し土手になっていますのでよじ登るようにして 行かないと林の中へ入れません。
ここまで来たら道に迷うよりも心が迷います。「もう、やめようかな。」と。 ここであきらめたらもったいないです。迷わず行けよ。行けばわかるさ。(笑)
中に入ると、めでたく「蜘蛛窟」と書かれた石碑があります。
神話によれば神武天皇が大和を平定すべく東征をしたとき この地には先住の人々が暮らしていました。
その先住の人々は神武天皇の皇軍に従わずに抵抗し敗れます。 土蜘蛛という名称は、勝者側が敗者の先住の人々 を呼ぶ時に使われた蔑称のひとつです。
日本書記には土蜘蛛のことを 「そのひととなり、身短くして手足長し。しゅじゅと相類す」
摂津国風土記の逸文には 「恒に穴の中に居り。故、賤しき号を賜いて土蛛と日う」 など表現されています。
実際に先住の人々の胴体が短くて手足が長く、土の穴に住んでいたのかは定かではありませんが このあたり一帯に先住の人々が暮らしていた可能性は高そうです。
日本書記によれば神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、 それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺した。 それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったと葛城の地名の伝承について記しています。
蜘蛛窟の石碑の場所には戦いに敗れた土蜘蛛と呼ばれた先住の人々が 眠っているのでしょうか。石碑には供養碑としての意味も込められているように感じます。
土蜘蛛に関しては、土蜘蛛(先住民側)の残した記録が無いためほとんど謎に包まれています。 葛城には高天彦神社社殿の脇にある岩をはじめ土蜘蛛に関する史跡がほかにもあります。あと高天原エリアではありませんが 葛城一言主神社境内に土蜘蛛塚があります。
天孫降臨伝説や神武東征神話が英雄神話として光の部分であれば 土蜘蛛の伝承は英雄を引き立てる神話の影の部分を担っているのかも知れません。 高天原エリアや葛城では神話の光と影の両方をたずねることができる貴重な場所だと思います。
是非、神話伝承地の生の空気に触れられて、あなたなりの古代ロマンを膨らませてください。
さて、蜘蛛窟に無事たどり着けたらなら、お隣の高天山野草園で森林浴はいかがですか?>>高天・山野草園を覗く